自立と自律
巷では「自立したい」と言いますが、
僕は「自律したい」です。
「大人になったら自立しよう」
「親から独立して一人暮らししたい」
という言葉はよく聞きますが、"自律"という言葉はあまり聞かないような気がします。
辞書を引いてみます。
(以下goo国語辞書 よりコピー)
〈自立〉
1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」
2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。「自立式のパネル」
〈自律〉
1 他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。「自律の精神を養う」⇔他律。
2 カントの道徳哲学で、感性の自然的欲望などに拘束されず、自らの意志によって普遍的道徳法則を立て、これに従うこと。⇔他律。
ついでに独立についても引いてみました。
〈独立〉
1 他のものから離れて別になっていること。「母屋から独立した離れ」
2 他からの束縛や支配を受けないで、自分の意志で行動すること。「独立の精神」「独立した一個の人間」
3 自分の力で生計を営むこと。また、自分で事業を営むこと。「親から独立して一家を構える」「独立して自分の店をもつ」
4 (法律の拘束を受けるが)他からの干渉・拘束を受けずに、単独にその権限を行使できること。「司法の独立」「政府から独立した機関」
5 一国または一団体が完全にその主権を行使できる状態になること。「独立を宣言する」「独立したての若い国」「独立国家」
こうして並べてみると、
独立と自立は非常に似ていますね。
一方で自立と自律は、
どちらも「自分で何かをやる」という点では同じですが、
自立が"他人を意識している"のに対して、
自律は"自己完結している"ニュアンスがあります。
(自律≠自立=独立)といった立ち位置です。
なぜ僕は自立ではなく自律したいのかというと、(まるで言葉遊びですが)
他人との関係を失いたくはないからです。
自分ルールを邪魔されたくはない。
けれど、普段の生活で他人と関わることは楽しく、エネルギーが湧いてくるものです。(現在他人との関係に苦しんでいるのなら、それは出会ってないからです。)
また、いざという時には自分の力だけでは越せない壁も現れます。
まだまだ知らない自分だっている。
何やってんだろう とか、気にしないようにしよう とか、思うけど、
そう都合よくはいかない。
自分を完全にコントロールしたい。
自分と生き、他人と生きる。
そういう生き方をしたい。
P.S.
こんなものはただの言葉遊び。
自立と自律なんて。同音異義語で遊んでるだけ。それをわざわざ、これ見よがしに言う必要も意味もはないように思うかもしれん。
でも言葉は、(特に普段から意識しているような言葉は)、確実に行為に現れる。
(いわゆる「誠意が見られない」ってのはそういう意味だ。)
だから意味はある。
「自立ではなく、自律するんだ」っていう言葉を 俺やあんたが忘れなければ、この言葉には意味がある。
変化は止められない 好き嫌い編
どうもkumanutsです。
変化は止められないものだなぁ
と思ったので、書きました。
自分好きですか?
僕は、50好き60嫌いぐらいかな。
マックス100として。今考えた。
少し嫌いが多いかなってイメージ。
でも好きな部分もある。それは他人と比べて出てきたものかもしれないし、絶対的な価値観から出てきたものかもしれないけど、好き。
嫌いな部分もある。まだ未熟だなぁとか、自分こんなことしちゃうんだーとか。
ちなみに未熟ってのは、
・社会から求められてる水準に達していない
・自分がありたい姿になってない
という意味で使ってます。
多くの人は混同しがちだけど、
嫌いのせいで好きはなくならないし、
好きのおかげで嫌いがなくなるわけでもない。
だから算数みたいな足し引きは起こるべきじゃない。
"起こらない"とは言わない。起こってるから。
だから"起こるべきじゃない"と主張する。
それから、嫌いは嫌いのままなわけじゃない。生きてるうちに変わる。
好きになることもあるし、無関心、つまり好きでも嫌いでもない になることもある。
好きも同じ。
条件は生きていること。僕が保証できるのはあなたが生きている範囲。
死んだあとは知らない。
死んだことないから。死んだ記憶がないから。
生きていれば見えるものも変わるし、美味しいと感じる食べ物だって自然と変わる。
それと同じように、感じるものも自然と変わる。不思議なことにね。本当に不思議な感覚。
好きが、好きじゃなくなるかもしれない。その時執着しちゃいけない。好きだったのに、好きでいなければならないのに、
そういう思いが出てくる。苦しくなってくる。
けど仕方ないことなんだ。
"それ"は僕に好かれる役目を終えたんだから。
さようなら。好きだったよ。
ごめんね。もう嫌いになっちゃった。
また好きになるかもしれないけど。
嫌いが、嫌いじゃなくなるかもしれない。その時執着しちゃいけない。嫌いだったのに、嫌いでいなければいけないのに、
そんな思いが出てくる。苦しくなってくる。
けど仕方ないことなんだ。
"それ"は僕に嫌われる役目を終えたんだから。
嫌いだったよ。ごめんね。
好きになったんだ。よろしく。
また嫌いになるかもしれないけど。
老人の頭が固いわけ
どうもkumanutsです。
最近、親から離れて暮らしたり、親の意見から自由にしていいということを考えるようになりました。
そうして自立して生きてく上で世界に対する自分の判断基準が必要なのだと知り、また感じました。
自分の価値観を固める必要があるのです。
固めなければあらゆることに決定をすることができません。決定しなければ生きていけないのです。
このように考えるのは、周囲からの圧力が原因なのか、真理なのかは今のところ判別できませんが、事実ではあります。
予定を決定しなければ動けません。目標を決定しなければ道が見えません。夢を決定しなければ生きがいがありません。
精神的に不安定になります。精神的不安定は肉体にも影響を与えるようになります。
勉強も仕事も、家事もゲームも、読書も寝っころがることも、生きることも、話すことも書くことも、考えることも動くことも、
やりがいがなくなります。
すぐに飽きます。やりたくなくなります。
ここまでは自分のことで収まります。
問題はここからです。周りの人との関係が鬱陶しくなります。
同居人・家族に迷惑をかけてる。一人暮らしなら大家さんに。仕事仲間や上司、先輩後輩。
捨て切ってしまいたいと思う。だけど捨てきれない。密接に繋がってしまっているから。依存してしまっているから。
自分のことまでなら、自分のやる気が全くなくなってしまうことまでなら、別にいい。
でも自分の外にまで影響を与えてしまうなら、もう自分一人で抱え込めるようなものでなくなってしまうなら、今の状態を改善しなきゃいけない。
その突破口が「決めること」
僕の予定が決まれば周囲の人だって動きやすくなる。
僕が目標や夢を語り、それに向かって突き進んでいると示せば、「頑張れ」なり助言なり、言葉をかけやすくなる。
やっぱやめたでもいい。やめるまでは行動が読めるから。僕が周囲の行動を見て動くように、周囲も僕の行動を見て動く。だから周囲が僕の行動を読むことをできるように、
決定をする
周囲と自分の精神安定のために決める。
人間は不安定で不明瞭なのは嫌なんだ。
だから
生きていく上では決めなくちゃいけない。価値観を固定しなきゃいけない。
価値観が固定している人は偉業を成し遂げ、偉人になり、初志貫徹しており、
なにより生きていける。
逆に言えば、長く生きている人は価値観を固定せずにはいられなかったんだ。
歳をとれば脳細胞だって減っていく。悩んだり迷ったりする力もエネルギーも残っちゃいない。思考を固定化、単純化せざるを得ない。
だから老人は頑固なんだ。
時代の価値観が大きく変わってしまった時、老人は『老害』と呼ばれ、
変化が小さければ、老人は『尊敬』される。
柔軟な思考、柔軟な思考と連呼するくせに、不安定・不明瞭は嫌うんだ。
つまり、求められてる柔軟な思考ってのは「あっちもいいなぁ でもこっちもいいなぁ」ということじゃない。
全事象を列挙+精査して、
利益が1番出る事象を選択してくれということだ。
全事象の列挙の部分が、固い思考で阻まれるから、柔軟な思考が必要。
選択の部分では、凝り固まった評価基準が必要。
生きたくば決定しろ。
しかし忘れるな。それは表面的な決定でいい。心の底では迷いに迷え。迷える子羊でいい。
注意!!!〜エゴサをしていたら〜
どうもkumanutsです。
kumanutsと調べていたら、
「僕 が 死 の うと 思っ た の は」と書かれている悪質なサイトがあったので、そのページは開かないようにしてくださいという注意喚起をさせていただきます。
ちなみにそのページに飛ぶと、
以前は新作のiPhoneが超安くゲットできるというキャンペーンをやっていました。
現在(2020/11/20)は、ウイルスに感染しているので、アップデートしてくださいというページが出ます。
超安価で新作のiPhoneがゲットできるキャンペーンについては、調べたら詐欺ということが別のサイトできちんと書かれていましたので、僕の憶測ではありません。
どうか、その「僕が死のうとおもったのは」に行ってしまう前にこの記事を読んでくれますように(>人<;)
時間制限がかけられており、これは焦らせて、調べたり考えたりさせない手口と思われます。
悪質です💢
まあ商売の常套手段とも言えますが(-。-;
kumanutsと調べてこんなサイトが出てくるなんて驚愕です。。。
どうかどうかお気をつけて下さい。
あ
あ
ぁ
ア
ァ
阿
A
Ah
아
何よりも先にあるべき「愛」
何かをするには、対象に対して愛がないといけない。
愛があれば気力が生まれる。
愛はエネルギーの源なのだ。
愛がなく、技術やテクニックばかり学んで満足してはいけない。
それでは中途半端なことや、かえってしない方がいいことばかりしてしまうからだ。
しかし技術や資格がもてはやされる傾向は続いている。手っ取り早いからだ。
技術を否定しているのではない。愛があっても、それを形にして伝える技術がなければ意味がない。
ただ、優先順位の問題である。
愛が先にあって、その後で技術を身につけることで、技術にも磨きがかかる。
ゆえにまず相手に愛をもつことが必要である。
では愛をどう感じるのか。
と、その前に「愛とは何か」という疑問があるかと思う。
この場合において
愛とは、「その人物の存在を望み、良いように生きて欲しいという気持ち」である。
そしてこの気持ちを持つためにすべきことは、
相手の今の姿だけじゃなくて、過去も未来も想像すること。
今のその人の姿だけ見るのではなくて、その人がどんな人生を歩んできたのか、どういう人生を送っていくのか、
ということを想像する。
そうすることで、他人に対する愛が生まれる。
だから、何かをする際にまずすべきは、その対象に対して(人でも物でも)愛を感じることである。
この人にどうなって欲しいのか?
これがどう見られたいのか?どう使われたいのか?
一般的にはこれを、「目的を明確にする」や「マインドセットをする」と言われる。が、だんだんとこれらが単なる技術になりつつあるように感じる。だから敢えて「愛」という曖昧な言葉を使っている。
先程は他人に対して愛を持つことを言ったが、物に対しても同様である。
あなたが物を作るのであれば、その物を愛し、それをこの世に形として残すことに喜びを感じ、その物に関わる人に愛を注ぐ気持ちでいかなければならない。
また、他人に対する愛だけではなく、自分に対する愛も大きな力となる。
愛を持って物事を行うことが大切なのであり、愛を育むことが一番大切なのである。
行動はその後に自然と湧き出てくる。