Kumanuts’s diary

このプロフィールの写真はある雨の日歩道に現れた虹🌈です

「正しい」を疑え!!

どうもkumanutsです。

ここは僕の「正しい」に気づくためのページです。


さとう ミツロウさんの 「悪魔とのおしゃべり」という本を読んで、僕らは「正しい」に縛られ、苦しんでいるのだと知りました。

そしてそこから抜け出し、なんでもできる、"本当になんでもできる"ようにするには、僕らの持つ「正しい」を捨て去ることが必要だと知りました。

この世界は勘違いでできています。
勘違いすればなんでもできます。





以下 「正しい」の箇条書き



・世界はある
・僕はここにいる
・僕とあなたと私たちがいる
・見ている
・聞いている
・匂いがする
・味がする
・触っている
・走ると疲れる
・運動すると疲れる
・こっちが現実、夜に見るのは夢
・部屋が汚い
・うちは貧乏だ
・空を飛べない
・水の中では息ができない
・背筋を伸ばさなくてはならない
・イケメンしか好かれない
・ぐうたらは悪だ
・親の脛をかじってはいけない
・僕は男だ
・僕はトロい
・僕には好きなものがない
・僕の体は僕のものだ
・それは僕のシャーペンだ
・それは僕のスマホ
・それは僕のお金だ
・ここは僕の家だ
・僕は何も知らない
・僕は一部自力で生きている
・食べないと生きていけない
インスリンを打たないと生きていけない
・約束を守らなければならない
・悪にはならない
・正義になるべき
・くだらないことはしてる暇はない
・時間がない
・死んで無くなる
・時間は過去から未来に進む
・人を悲しませてはいけない
・人を楽しませなければならない
・無理に生きなければならない
・可能な限り死んではならない
・人を避けて歩く
・電車の席は端を取りがち
・端に行って手すりや扉に寄りかかりがち
・人を通り抜けることはできない



「正しい」を知れば、「正しい」のおかしな所に気づき、気づけばなんでもできるようになる!


人間こんなもんじゃねえぞ❗️

良い人ぶらないで、良い人になりなさい

どうもkumanutsです。


「良い人になりたい!」、「あの人は良い人だ。」



"良い人" ってどんな人???


よく分かりません。
よく分からないけど、言われると嬉しいです。
よく分からないから、言われるとモヤっとします。



パッと思いつくもので、


優しい、はっきり言う、礼儀正しい、他人優先、自分を成長させてくれる、穏やか、虫を殺せない





良い人 と 良い人ぶっている人 がいます。


良い人ぶっている人とは、見かけだけ、技術だけを学ぶ人です。

存在するのか知りませんが、「良い人の特徴!20選‼️」とか読んで、
「これをやれば、俺も明日から良い人になって、みんなからの信頼も山盛り貰えてウハウハだぜ!」
とか考えている人です。


(信頼でウハウハだぜ! って結構意識高い系ですね。
お金よりも信頼の方が大事だとよく知っていらっしゃる👍)


中身よりも外殻から作ろうとする人は、いつか中身が飛び出てしまいます。



良い人は、中身から違います。
いや人工内蔵とかじゃないですよ。鋼鉄の胃とか付けなくていいです。体が重すぎて歩けません。

態度とか、考え方とか、そういう目に見えないものが違うということです。



中身は外をつくります。

食べた物で体ができます。



良い人とは、為に生きる人である。目の前の人の為、日本の為、韓国の為、世界中の人の為、物の為。


具体的にすると

人を大切にする人、物を大切にする人、世界のことを考えている人、


皆、良い人です。

グラスに半分の水

どうもkumanutsです。


悲観主義か楽観主義かについてはよく、グラスに半分注がれた水の話で説明される。


グラスの半分の水を見て、

半分もあると考えるのが楽観主義。
半分しかないと考えるのが悲観主義



僕は、半分の水を見て何も思わない。正確には「あ、水が半分ぐらいあるな」と思う。

水が足りないならおかわりすればいいし、水が多いなら残せばいい。無駄にすることは好きじゃないから、誰かにあげるか、あとで飲むことになるだろうけど。



だから、この説明を受けた時にその人が水を飲みたいかどうかが大事で、
さらに言えば、どういう状況かにもよる。

水を飲んだばかりなら、半分"も"あるだろうし、
活動した後なら、半分"しか"ないと思うだろうし。



楽観至上主義で、人にも楽観的になってもらいたいたなら、その人と一緒に運動して、その直後にこの説明をすればいい。

そうすればその人は自分は楽観主義なんだと思いこむ。
思い込めばその人の人生は楽観的人生に変わる。

逆もまた然り。


おしまい

哲学者って何だろう?

どうもkumanutsです。


今回 哲学者って何だろう? ということを考えました。



知り合いにブログを書いてることを話すと、
「どんなことを書いてるの?」と聞かれます。今のところ100%聞かれます笑


でも、自分でも正直これらがどんなジャンルなのかよく分かっていなくて、

「僕が考えたことを記事にしてる」

と毎回答えています。


で、毎回「僕の記事は一言でいうとどういうジャンルなんだろう?」と考えます。


そんなやり取りが続く中で、
「ブログ見せてよ」と時々言われます。

特に断る理由もないので、URLを送ったり、直接スマホの画面を見せたりするのですが、


ある時、
「哲学っぽいね」 と言われました。

特に「これどういうジャンルだと思う?」と聞いたわけじゃないです。

その子が見た直接の感想をいただきました。


でも「哲学」と言われると自分の中で違和感がありました。


確かに哲学者は考えることを仕事にしてるわけで、
逆に言えば、考えてることを書いてるということは"哲学"と表現できるものだと思います。


ですが、哲学というともっと高尚なものというか、「資本論」や「純粋経験」のようなしっかりとしたものなんじゃないかな。と思っていたのです。


仮に僕のブログ記事が「哲学」なんだとしたら、多くの人が「哲学」をしているわけで、皆が「哲学者」なんだと思います。



そう考えると「哲学者」って特別な人だけがなるものではないのだと思います。


友人とちょっと深い話をしてみてください。
恋愛話を始めたら、どこかのタイミングで「それは愛なのかな?」って投げてみる。「仕事だりー」って話してたら、「なんで仕事してんだろう?」って会話の中に投げてみる。



それだけです。哲学者もそんなことばかり考えています。難しいことを話しているようで、実は素朴な疑問を疑問のままにしていないだけなのです。


哲学=難しいこと ではありません。

僕は学生時代に「生きるって何だろう?」と父に聞いたら「厨二病だねー」とからかわれました。


たぶん父も答えられなかったのでしょう。
だからからかって曖昧なままにしたのだと思います。


これが厨二病なら厨二病のままでいいやと思いました。


高校を卒業した今も厨二病です。そして哲学者です。




哲学者=なんか難しいことを考えてる人 ではありません。



すべての考える人=哲学者だと思います。

変わる変わる変わる

どうもkumanutsです。


今回は「人は変わる」という話をしていこうと思います。


人は毎日変わります。
毎時間、毎分、毎秒変わります。



ほんの小さな部分で変わります。



他の人から見たら全然変わっていないように見えていても変わっています。



自分自身では何が変わったのか分からないレベルで変わっています。



誰かに
「自分はここが変わったんだ」と説明できなくても確かに変わっています。



体も変化しますし、心も変化します。


10秒前に「好き」と言ったくせに、同じことを今は「嫌い」と言います。




だからこのブログを書くことはすごく苦労します。


なぜなら一つの内容について一貫性を持って書かないといけないからです。


途中で意見が180度違ってしまうと、読者の方たちが困ってしまうからです。


最後まで読んで欲しいし、また読んで欲しいから、困らせないようにこれからも書いていきたいです。


…と話がズレました笑




今回の記事は「自分なんて変われない」と思っている人のために書きました。


はい。では続けます。




人は少しずつ変わります。

自分でも気づかないぐらい少しずつ。

でも、その変化は確かに積もり積もって必ず目に見える形になります。



それでも「変わらない…」と思い悩んでしまうのは、おそらく
変化しているかどうかの確認ペースが早すぎる のだと思います。



例えば、
学校では、学習の変化の確認のためにテストがあります。

テストで良い点数が取れないと、嫌な気分になります。自分はダメなんだと感じてしまいます。
そして勉強したくなくなります。勉強しないから、良い成績は出ません。

負のループです。



ですが、成績で良い点数を取れないのはダメダメだからではありません。



あなたが勉強を始めてから、テスト本番までの期間が短すぎるのです。



ですがテスト期間を伸ばせばいいのだというのは傲慢です。それは無理ゲーなので、勉強を始める期間を早めるようにします。



他にやりたいこともあるかもしれませんが、 "少し"やるのです。
僕の通っていた学校では2週間前にテスト本番までの計画表を作らせていました。
でも、2週間前と言わず、普段から10分、いや5分だけ勉強するのです。
マジで勉強したくないなら1分でもいいです。その1分が効きますから。




このことは別に学校の勉強に限りません。

会社の成績だろうが、家事スキルアップだろうが、価値観を変えるのだろうが、全て同じです。



いつのまにか大きく変化しています。



変化の確認ペースをゆっくりにする。
これだけで、自分を許せます。まだ変わってない…と落ち込むことが無くなります。



確認ペースがみんな早いんですよね。

分かりやすいのでまたまた学校の勉強を例にします。

最初の頃数学ができなくてそれから何ヶ月も数学をやろうともしなかった人が、
「ずっと嫌だったけど、よし数学やってみるか」
と"昨日"思ったのに、


「まだできないなあ」
って"今日"思ってるんです。

もしくは
「まだこんなこともできないのか!」って先生や親に怒られたり、同級生にからかわれるんです。



ゆっくりやりましょうよ。
ギスギスしないで。
教えてくれればいいじゃないですか。
教えてあげればいいじゃないですか。


大丈夫です。あなたは変化してます。
あの人も変化してます。


せーのっ

変わる変わる変わる




P.S.

日記をつけておくと一年後に見たときに変化を見て面白いかもしれません。

でも以前の自分と比較しないように、昨日のページは見えないようにすることが大切です。


日記には
・今日は何をしたか
・何を思ったか

それだけを記録します。



P.P.S.

比較して、自分を追い込める人と追い込めない人がいます。

そのあたりは自分で知っておくと良いと思います。




ではまた別の記事で会いましょう!

理由なんていらない!ギブアンドギブなんてクソくらえ!

どうも、kumanutsです。




相手からのギブに対して、嬉しくて嬉しくて仕方ないからギブを返す
というのがお互いにとって良好なのに、



別にギブを返したくもないのに、社会的に死にたくないから返す。

という風になっていて、返す側が辛く感じてしまっていることがあります。


返すことに辛さや面倒くささを感じてしまう人は続きを読んでみてください。




社会での暗黙のルールとして、「与えられたら返す」というものがあります。




タイトルにある「ギブアンドギブ」もそうですし、「親孝行」、「やられたらやり返せ」、「お金の貸し借り」、などなど、



「与えられたら返す」というルールは世界に溢れています。


そして、このルールを破れば、
「信頼を失い」、「後ろ指を指され」、「生きづらく」、なります。





当たり前だ。と思った人も少なくないでしょう。




ですが、このルールには悪い部分があります。

相手に何かを与えたくても、その相手から与えられていないから、与えることができない


理由がないと不安だ。好意の裏を気にしてしまう


ということが起こっているのです。



例えば、
あなたが誰かにプレゼントをあげるとします。

その時、必ず理由がありますよね。



「今日は誕生日だから」とか、「日頃のお礼」とか、「あの時助けてくれたでしょ。その代わりとして」という風に。


その方が受け取る側も受け取りやすいので、僕も理由をつけるようにしています。



でもプレゼントって、本当はいつ貰っても嬉しいものじゃないですか?


それに相手が喜ぶプレゼントがあるけど、期間限定だし、誕生日まで待てない!ということもあると思います。



なんでもない日のプレゼントが嬉しいなんてザラにあります。





でも、受け取った時、少し思いませんか?


「僕/私も返さないといけないのかな?」


って。


もしくは義務的に、「返さないと!」って思ったり。




でも「面倒くさいな」とか思ってしまって、
「いやいやこれは返さないと人としてマズいでしょ」と自分を律することもあります。



ギブされたからギブしないと!
それが人として正しいから。


こうなると辛いです。





誰かに好意的に何かをしてあげることに特別な理由なんていらないと思います。


逆に、理由があると、
「あ、そういう義務的な感じなんだ」
と、少し寂しくなることもあります。


初めて会う人には理由があった方がいいことが多いですが、(怪しいですし)


仲が良い人となら、理由もなく、ただしてあげたいからした。という方が嬉しい気がします。




本来ギブに対して、嬉しくて嬉しくて仕方ないからギブを返す
というのがお互いにとって良好なのに、



別にギブを返したくもないのに、社会的に死にたくないから返す。

という風になっていて、返す側が辛く感じてしまっていることがあります。



例えば「悩み相談」や「親孝行」など


悩み相談をする時、

悩みを相談します。
相手が何か方法を教えてくれたとします。
たとえその方法が理路整然としていても、
その方法通りにやりたくないと思うこともあります。



でも、相手がせっかく出してくれたのだから、とりあえずやってみるか…。正しそうだし。
嫌だ。なんて言ったら、じゃあ勝手にしろ。とか言われちゃうかもだし…。助けて欲しいから相談しているのに。


この場合、
解決策というギブをされて、
その解決策を受け入れるというギブを返さなくてはいけない


というギブアンドギブの不具合が起こっています。




親孝行については、

「ここまで親に育ててもらったんだから~しなさい」
というのが殺し文句です。


学校に行きなさい。就職しなさい。結婚しなさい。老後の面倒をみなさい。



親から直接言われなくても、友人などから言われます。



この場合は、
親に育ててもらったというギブに対して、
親の言うことを聞くというギブを返さなくてはいけない


という不具合が起こってしまっています。







「理由があることは正しい」 という思考

「与えられたら返す」 というルール


が生きることを難しくしてしまっているのです。

ルール、規則を守る理由

ルール、規則を守る理由
僕は基本的にルールを守る人です。


集団を作ったら同時にルールも作るべきだとも思います。


ですが「縛られたくねえ!」とか「俺たちは自由だ!」とか「ルールに忠実な犬どもが!」とか、仮に言わなくても思ってる人はいるんですよね。






そこで、僕が何故ルールを守るべき、ルールは必要だと思うのかを伝えたいと思います。


「ルールは何のために作られるのでしょうか?」
これを知れば自然と良いルールを守ろうとする意識になると思います。



この疑問に答えるため、さらに2つの疑問に順番に答えたいと思います。


1.ルールを作るべきか作らないべきか?
2.ルールの役割とは



1.ルールを作るべきか作らないべきか?
ここから始めます。

自分が集団のリーダーであるとイメージしてください。




集団には集まる目的があります。

仕事の集団なら、利益を出すこと・理念を達成すること など
一緒に生活する集団なら、生き延びること・仲良くすること など


このような目的を達成するためにルールは必要ではないですか?



仮に必要じゃないとして、
ルールなんて作らず、自由にやらせました。



結果はどうなるでしょうか?



自由にやらせたとしても、目的を達成するために自ら考え、行動する人(①)もいれば、


自由だからといって、他の仲間から食べ物を奪ったり、自分は仕事をせず、押し付ける人(②)もいます。
でもルールがないから指摘することも罰を与えることもできず、目的から離れていっていてもその人を放っておくしかないのです。



そうすると②の人は当然のように集団から出ていき始めるし、①の人もそんな劣悪な環境から離れていきます。



せっかく集めたのにどんどん散り散りになってしまうのです。



これではいつまで経っても目的を達成できません。




だから目的を達成するために、集団にはルールが必要なのです。



2.ルールの役割
それではルールを作っていきます。


どんなルールを作りますか?


「人を殺してはいけない 」や「他人の迷惑になることはしてはいけない」などでしょうか。



僕は悪いルールと良いルールがあると思います。

悪いルールはそもそも作るべきではありませんし、既存のルールに悪いルールが含まれていれば、改善・削除するべきです。




これから話す"ルールの役割"を
果たしていれば良いルール、
役割を果たしていなければ悪いルール
と呼ぶことにします。



ルールの役割とは、先程1で示したように、


・集団の目的を達成できるようにすることです。


もう少し深掘りしましょう。




ルールとは
物事を単純化し、
効率良く回し、
その都度「どうしようか」と悩むという無駄なことを省くためのもの

です。


本来縛るためのものではありません。



例えば歯磨きをする時。


歯磨きの目的は歯を綺麗にすること、そして全ての歯を磨くことです。


毎回「今日はどの順番で磨こうかな?最初に上の右奥、次に下の手前、その次は下の左奥、えっと次は……」と考えるのは非効率だし、脳も疲れます。


だから「上の右奥→上の手前→上の左奥→下の左奥→下の手前→下の右奥 の順番で一周しよう」とルールを決めておくと、すごく楽だし、
頭を使わなくてもいいから、歯磨きをしながら別のことを考えておくこともできます。


人は考えたり決定するのに多くのエネルギーを使ってしまい、一日にたくさんの決定をすると、重要な決定で失敗することがあります。

このエネルギーのことを"ウィルパワー"と呼びます。


コーラはペプシコカ・コーラ
朝食はご飯かパンか
図書館に行くか本屋に行くか
隙間時間に本を読むか音楽を聴くか
「はい」と返事するか「いいえ」と返事するか


このような些細なところでウィルパワーを使ってしまいます。



だからルールを作り、省エネしておくのです。
そして大事な案件で決定をする時にウィルパワーを使います。




よってルールの役割とは、

「単純化してウィルパワーを省エネし、大事な決定で最良の決定をできるようにすること」


と言えます。



以上2つのことから

「目的を達成する上でそれが効率が良く、集団にとって最良となるルール」
であれば、守るべきルールとなります。


これはあるマクドナルドで働いていた人から聞いた話ですが、
マクドナルドでは、従業員がしっかりとマニュアル通りに動けば1人のお客さんに対してたった30秒しかかからないそうです。


作業の単純化、効率化を追求したマニュアルであれば、それには従う価値があると思います。


特にマクドナルドのような、お客さんをあまり待たせない、どんどんお客さんに対応したいという業種ならマニュアルの効果は劇的なものとなるでしょう。





もしもあなたが単に縛られたくない!とかいう理由でルールを嫌っているなら、
そのルールがあることでどんな恩恵を受けているのかを改めて考えてみてください。
またはそのルールがないことによる弊害を考えてみてください。




ここまでルールを守ろうという話をしましたが、最後に守らなくていいと思うルールを紹介します。



自分より「年上には敬語を使う」というルールを教えられます。

ある年上の人に「敬語を使われるのは嫌だからやめてくれ」と言われたとしましょう。

この時「年上には敬語を使う」というルールを守り続けるべきでしょうか?


答えは否です。



敬語を使う理由を考えてみると、
・相手を立てるためとか、
・円滑なコミュニケーションを取るため

です。


敬語を使われたくないという人に対して敬語を使うことは、むしろコミュニケーションを難しくしてしまうことに繋がります。


これは敬語を使う理由に反してしまっているのです。




一方で、相手が敬語を使って欲しい、使われるべきだと考えてる場合。


これは敬語を使うべきでしょう。
コミュニケーションを円滑に進めるためです。



まとめ


・ウィルパワーの省エネ
・効率的である
・目的に沿っている

以上の理由から僕は基本的にルールを作り、守ります。



P.S.


僕なら「年上には敬語を使う」というルールではなく、
「年齢に関係なく、とりあえず始めは敬語を使い、関わる中で敬語を使い続けるかフレンドリーな風に接していくかを決める」
というルールにします。


この場合、敬語は丁寧な口調になるので、初めましての人には敬語を使うことにしているのです。
また、日本では年上には敬語を使うことがスタンダードであるというのも理由です。


敬語はツールです。
大切なのは会話の内容ですので、敬語を使う使わないにあんまり拘っていません。