老人の頭が固いわけ
どうもkumanutsです。
最近、親から離れて暮らしたり、親の意見から自由にしていいということを考えるようになりました。
そうして自立して生きてく上で世界に対する自分の判断基準が必要なのだと知り、また感じました。
自分の価値観を固める必要があるのです。
固めなければあらゆることに決定をすることができません。決定しなければ生きていけないのです。
このように考えるのは、周囲からの圧力が原因なのか、真理なのかは今のところ判別できませんが、事実ではあります。
予定を決定しなければ動けません。目標を決定しなければ道が見えません。夢を決定しなければ生きがいがありません。
精神的に不安定になります。精神的不安定は肉体にも影響を与えるようになります。
勉強も仕事も、家事もゲームも、読書も寝っころがることも、生きることも、話すことも書くことも、考えることも動くことも、
やりがいがなくなります。
すぐに飽きます。やりたくなくなります。
ここまでは自分のことで収まります。
問題はここからです。周りの人との関係が鬱陶しくなります。
同居人・家族に迷惑をかけてる。一人暮らしなら大家さんに。仕事仲間や上司、先輩後輩。
捨て切ってしまいたいと思う。だけど捨てきれない。密接に繋がってしまっているから。依存してしまっているから。
自分のことまでなら、自分のやる気が全くなくなってしまうことまでなら、別にいい。
でも自分の外にまで影響を与えてしまうなら、もう自分一人で抱え込めるようなものでなくなってしまうなら、今の状態を改善しなきゃいけない。
その突破口が「決めること」
僕の予定が決まれば周囲の人だって動きやすくなる。
僕が目標や夢を語り、それに向かって突き進んでいると示せば、「頑張れ」なり助言なり、言葉をかけやすくなる。
やっぱやめたでもいい。やめるまでは行動が読めるから。僕が周囲の行動を見て動くように、周囲も僕の行動を見て動く。だから周囲が僕の行動を読むことをできるように、
決定をする
周囲と自分の精神安定のために決める。
人間は不安定で不明瞭なのは嫌なんだ。
だから
生きていく上では決めなくちゃいけない。価値観を固定しなきゃいけない。
価値観が固定している人は偉業を成し遂げ、偉人になり、初志貫徹しており、
なにより生きていける。
逆に言えば、長く生きている人は価値観を固定せずにはいられなかったんだ。
歳をとれば脳細胞だって減っていく。悩んだり迷ったりする力もエネルギーも残っちゃいない。思考を固定化、単純化せざるを得ない。
だから老人は頑固なんだ。
時代の価値観が大きく変わってしまった時、老人は『老害』と呼ばれ、
変化が小さければ、老人は『尊敬』される。
柔軟な思考、柔軟な思考と連呼するくせに、不安定・不明瞭は嫌うんだ。
つまり、求められてる柔軟な思考ってのは「あっちもいいなぁ でもこっちもいいなぁ」ということじゃない。
全事象を列挙+精査して、
利益が1番出る事象を選択してくれということだ。
全事象の列挙の部分が、固い思考で阻まれるから、柔軟な思考が必要。
選択の部分では、凝り固まった評価基準が必要。
生きたくば決定しろ。
しかし忘れるな。それは表面的な決定でいい。心の底では迷いに迷え。迷える子羊でいい。